国鉄方向幕書体とは?

 国鉄の列車には、列車の行き先を表示する為に、フィルムシートを電照して文字を表示する「方向幕」という装置が車体に取り付けられており、この行き先表示のフィルムに印刷された文字が独特の表現でありながら、実は全国各地で統一されたかの様に揃ったものとなっていました。これを愛好家の人達は国鉄の方向幕の書体と呼んでいました。
国鉄方向幕の文字例(呉)
(図1:方向幕の文字・呉)

 国鉄の方向幕の書体とまで言われるに至ったのは、数ある国鉄の表記類(例えば駅名表や案内掲示等)がある中で、そのいずれでも使用されておらず、列車の車体に取り付けられた「方向幕」という装置の中にあるフィルムの印字だけにしか見ることが出来なかったからです。書体として確立されているものであれば様々な場所で使われているはずですが、実際には方向幕の行き先表示でしか見ることができませんでした。しかも面白いことに、方向幕で使用される限りでは全国で同じ文字が使われており、一例をあげると「草野」「草薙」「草津」それぞれ違う地方で走る列車の行き先の「草」の文字の形が全く同じでした。共通して使われているのだから書体があるのではないか、しかし他では使われていないところを見るとどうやら書体ではないようだ、これらが書体(当時の時代背景から書体と言えば写植原版のことを指す)なのか、それともそうではない特殊なものなのか、方向幕の中でしか使わない限定的なものであるにも関わらず全国で統一する必要性とは何なのか、様々な謎が生まれました。
草の字(図2:方向幕の文字・草の字)

 その一つの謎を解くきっかけとなったのは、東海道線を走る113系の方向幕と横須賀線を走る113系の方向幕の差異です。東京近郊を走る両者の方向幕には、どちらにも収録された同じ行き先が存在します。しかし、その文字を比べてみると違うものだったのです。これはおかしい、何故同じにしないのだと。そこで、全国的に方向幕の行き先の文字を丹念に見比べてみると、さらに興味深いことが分かってきました。なんと、同じ地区を走る列車の方向幕の同じ行き先の表示に、文字の形が違うものがあったのです。それも両者を比べなければ分からないものです。これらは1文字だけではなく複数の字に及びますが、行き先が2文字の駅名だったとして、両方の文字が違うこともあれば片方だけが違うこともありました。そこでまず最初の結論として、写植原版ではあるがこれらは1文字単位で完成品であって「書体ではない」という結論が得られました。
熱海の違い(図3:方向幕の文字・熱海のデザイン違い)

 全国の国鉄車両が続々と引退したり転属したりして、方向幕のフィルムシートが即売会に多く出てくるようになると、全国レベルで資料が集まり始めました。これらを精査していくと、同じ文字でも複数種類の形がある例が多くあり、必ずしも統一されているわけではないことも分かりました。特にJR東海やJR西日本では、国鉄時代とは異なる独自の書体と見られる文字を使って、新しい方向幕を作っているらしいことも分かり始めます(民営化により国鉄の鉄道掲示基準規程の適用を受けることがなくなったため、これに代わるものを各社独自に作成していたものと思われます)。
東海書体と西日本書体(図4:方向幕の文字・東海書体と西日本書体)

 そしてついに決定的な情報として、客車のテールサインに使用されている方向幕に「図面」があるという情報が得られました。いわゆるヘッドマーク類、L特急のトレインマークイラストなどにも図面があることがわかり、最終的に一般車両の行き先に用いられている方向幕にも図面があることが分かりました。実際にそれらの図面資料がネットオークションにかけられることもあり、今まで謎とされてきたことがこれで氷解することになりました。その後の調査で、これらの方向幕の文字の図面は「国鉄車両設計事務所」により図面化されていたことが明らかになり、さらには車体表記や号車表記、非常用ドアコックの注意から栓抜きの説明など、車体形式の全般多岐にわたる標記文字の一部として、車体形式ごとに方向幕の文字図面が作成されていたこと、国鉄後期にはそのコストを圧縮するために、共通化できる標記文字部を複数の列車形式で共有するために、「標記文字」という別立ての図面に集約していたことが明らかになりました。元々は各車両形式の図面ごとに1つの章として標記文字という部分があったものが、これが車両形式の図面の付随章から切り離され、全車両形式にまたがって適用される別個の図面となったというのが経緯です。同じ行き先で複数の文字の形があったのは、車体の形式ごとに図面を作成していたことで発生してしまったものであり、後期には標記文字として共通化されていったので、全国的に共通化(使いまわし)が行われ始めたのが真相ということになります。
図面1(図5:標示用制定書体制定前の図面は丸ゴシック)
図面2(図6:標示用制定書体制定後の図面は隅丸ゴシック)
雷鳥図面(図7:特急雷鳥のトレインマーク図面)

 一般的には国鉄の方向幕の書体などと呼ばれていましたが、その正体は書体などではなく「車両設計の一環で生じる標記文字デザイン」により生まれた意匠でした。フィルムシートに印刷するという目的から写植原版になったため、印刷書体のように見えたものの実は全く別物で、本来なら車両形式ごとに違うはずだった標記文字デザインが、国鉄の財政悪化と合理化の為に共通化されたことで1つのファミリを形成するに至り、結果として書体に見えていただけという悲しい真実も明らかになりました。

 国鉄車両設計事務所が車両形式の図面で標記文字をデザインする一方、国鉄全体のルールとして鉄道掲示基準規程の中で標示用制定書体というものも作られていました。これは、ひらがなとアルファベット大文字、漢字の部首だけの簡素な手書きの指針で、駅名票や駅構内の案内等の文字などに適用されていました。角の部分に丸みが付けられた国鉄書体いわゆる隅丸ゴシック体は、この鉄道掲示基準規程により全国で統一が図られますが、部首のみで漢字が全く定義されていないなどの理由で、書体としては統一できませんでした(国鉄としては独自に1書体を外注してJNR-L書体という次世代の書体を作る方向に舵を切りますが、極度の財政難と国鉄そのものの終焉により次世代書体JNR-Lによる標記統一は適わず、これは後に手書きの仮名部と組み合わせてJR東海書体となりました)。国鉄車両設計事務所が作成する図面の標記文字は、鉄道掲示基準規程が制定されるはるか以前から作成されており、この制定を期に丸ゴシックが隅丸ゴシックに変わるというデザインルールを適用した以外では鉄道掲示基準規程に忠実に倣う様子は見られず、その後も独自に標記文字を作り続けたと思われます(氏の字のデザインを見る限り倣うつもりはなかった様子です)。方向幕の文字が鉄道掲示基準規程の標示用制定書体を元に作成されたというのは誤りです。
標示用制定書体抜粋(図8:標示用制定書体抜粋一覧・提供画像)

 これらの調査結果から、国鉄の方向幕の書体とは、①実は書体ではない、②しかし1文字または1駅名ごとの写植原版が存在する、③元々は新規車両設計の一環で作られた標記文字の意匠(図面)である、ということになります。国鉄は合理化・コスト削減のために標記文字体系を集約はしたが、それは新たな図面作成時の労力を減らすためのものであって、書体編纂という意味ではなかったのです。いずれ取って替わるはずだったJNR-L書体が方向幕に本格的に展開されるのは、国鉄が消滅してより何年も後のことで、その真の姿こそ現在のJR東海地区を走る列車の方向幕です。国鉄が存続していればいずれ淘汰されて消えたであろう車両標記文字だけが、新形式の列車にまで使い続けられたのは、新たに作るよりもコストが安かったからでしょう(変わることの無い駅名と変わることの無い印刷方法ならそうなります)。

 標記文字の源流は一体誰なのかというと、実は黒岩保美という方で、特急列車の機関車ヘッドマークをデザインされた方です(その名は鉄道趣味家にとどまらず、デザイナー界のレジェンドとしても大変有名な方です)。この方が車両設計事務所でヘッドマークやトレインマーク・標記文字を作成し、後進の人材を育成し、後を継いだ人達が黒岩保美氏が残した資料を元に新たに図面を作成していきました。特に一般車両の方向幕の元祖と言えるのが12系客車の方向幕で、この図面の作図は全てが黒岩保美氏になっています。氏のエッセンスが100%詰まっているという意味で、12系客車の方向幕(いわゆる全国行き先のみの70コマ幕)は相当に美術的価値があります。どんな車両の方向幕でも全く同じ文字が印刷される「回送」「試運転」「臨時」等のコマは、この時すでに作成されており、以後ずっと黒岩保美氏のエッセンスが方向幕のコマ順のどこかに必ず印字されるということになりました(結果的にこうなっただけでしょうが、何とも趣のある話です)。

 いわゆる国鉄書体と呼ばれるもののうち、方向幕のように意匠ベースではないものとして、手書きの駅名票の書体については権利を有する法人が存在します(これは実際にロールズに過去連絡がありました)。それ以外では前述の標示用制定書体が存在するのみです。一方、意匠ベースのものとして、車番標記文字、運番標記文字、形式表示文字、そして方向幕標記文字(トレインマーク・ヘッドマークを含む)はすべて車体設計時の標記文字図面を元にするものですので、意匠ベースとなります。

 ロールズでは、車両設計事務所が作成した標記文字を「幕専」というデジタルのデザインフォントに(これは現在システム上の理由から廃止されミニミニ字幕原版に変わっています)、標記文字の特徴だけを独自に検討して1書体として「国鉄方向幕書体」という一般デジタルフォントを作成しました。これは、せっかく作られた標記文字をこのまま打ち捨てるのではなく、デジタル化することで再び広く使えるのではないかと考えたからです。長い時間がかかりましたが、一定の成果を打ち出す事が出来、ユーザーの皆様にご使用いただけるようになりました。そのデジタル版「国鉄方向幕書体」も初版リリースから10年以上を経て、ようやくJIS第一水準漢字に対応しました。国鉄の合理化よりも厳しいロールズ緊縮財政が継続される中、それでも少しづつ実装を加え、次の頂上(JIS第二水準漢字)を目指してロールズはがんばっています。